五の章  さくら
 (お侍 extra)
 

    東 風 〜またあした

       四の章



 長かった冬が、重たい尻をやっと上げたことを示す“節季”をすぎて。春もいよいよのたけなわへと、本格的にその訪のいの気配を深めつつあり。荒野を渡る風も、まだまだ厳しき強さの中にも仄かな伸びやかさや柔らかな温みが少しずつ増している。そうともなれば旅人たちの装備からも防寒性への重きが除かれ、色彩ともどもその装いが軽いものとなってゆくが、彼らの足取りが軽やかなのは、単に体が軽くなったから…というだけでもなかろうて。様々な生き物が芽吹き、陽に向けての活動を始める春。交易の街である虹雅渓へも、遠い土地から春の香を載せた色々が運び込まれる頃合いで。春が旬の野菜に果物、春の祭りや行事に要りような調度や雑貨、この春に流行しそうな色や柄の織物・着物、などなどと。商い仲間や旅仲間との、その道行きが合わさって、荷物の話題から“おや今年もそんな時期になったんだねぇ”という声が出るそのたびに、聞いた側も持ち込む側もついつい思わずの笑顔がこぼれる、そんな擽ったい季節でもあって。

 「さあて、そろそろ朝一番の隊商が着く頃合いだ。」
 「大門を開け。」

 暁が黎明の中へと最初の一矢を投げ込んで。先触れとなった陽光が、大地の上へ次々に金の翅のような陽だまりを開いてゆく中。するすると薄絹がはがされるように、明るい朝が、今日という新しい1日を連れてやって来る。寒夜の間に堅くなってしまった体を大きく伸ばしつつ、遅番の衛士らが数人がかりで巨大な門へと足を運び、大カンヌキを外す作業に取り掛かるのが、この街の四方それぞれの最も端っこの広小路での毎朝恒例の風景でもあり。位置的には場末のはずが、中央部の市場に匹敵する賑わいたたえ、店屋が軒を連ねているのも、この途轍もなく大きな門に理由がある。

 「点呼取ったか? 耳門
(くぐり)班、引き継ぎの用意はいいか?」

 交易の街・虹雅渓は 街としての発祥が特異であったがため、荒野のただ中にポツンと突出しているその位置を利点としつつも、それはそのまま、四方八方どこからでも侵入を許しやすいという難点にもなったので、その箇所へ新しい都市ならではの工夫が凝らされた土地でもあって。今でこそ その名が遠方にまで届くよな、結構な大きさの街に育ってもおり、よほどの群を率いて来ねば取り囲むという真似こそ出来ぬが。それでも、勢いのある軍勢や集団が一気に駆け込めば、それがどんなに堅牢な都市や町であれ侵略の足掛かりにされる恐れはなくも無しとの、古来からの数多
(あまた)ある例を考慮してのこと。各層各所への整備や発展と同時進行で、その周縁にも頑健な城塞を築いておいた初代の差配殿であり。建前的には砂防のためという名目だったが、どう見たって防衛のためのそれで、ところどころに大門という出入り口があって人や物の出入りを監視する“関所”の働きもこなしていた。基本的な理屈は、かつての癒しの里への出入り制限と同んなじで、借金のカタにと売られて来た女たちや一獲千金を目論んで働いていた流れ者の労働者らが、手に手を取っての借財を踏み倒し、勝手に逃げ出さないようにと設けてあった“人別”の関所。町のあちこちへ手を入れていたことから、後には差配にまでのし上がった綾麻呂の、当時も…厳密に言えば個人的な配下に過ぎなかった警邏隊が、だっていうのに傲然と監視の眸を光らせていて、届け出がないと通過出来ないという仕組みがそのまんま設けてあったのだとか。

  ――― とはいえ

 創成期に、権勢者特有な独善の上に設けられた関所とその監視制度は、だが。商人たちの間での差配と組主の力関係や上納制などなどという、都市の運営上での形態がすっかりと整っていた昨今では。もはや そこまでの強制力は発揮されておらず、どちらかといえば当初においては建前だったはずな大風や大寒波への対応や、砂防効果のほうへと重きを置いての開閉を大事とし、監視自体もたいそう緩やかなそれへとすっかり移行してしまっている。綾麻呂が“都”におもねったおり、その権力が失墜したから…ではなく。街の発展を優先し、公益性の方を重視して。個人的な損得という狭い定規だけでものを見ず、むしろ寛容さを発揮し、門戸を広く開けることのほうを奨励。それによって微妙に素性不祥な流れ者も多少は入り込んだものの、物資の流通に勢いづいたことの方が勝
(まさ)っての、街の隆盛 極める流れを作ったとされており。そういった鷹揚さもまた、戦後に発したばかりな街とは思えぬ大きさ豊かさで一気に名を馳せた、一大商業都市へと育った要因と言えるのだが。


  ――そんな荒野の都市を舞台に、
    こそりと始動の時期を見計らっている策謀、これありて。


 「そういや、この冬の間にも、
  あちこちの街や里で結構な蜂起や暴動があったらしいな。」
 「だそうだな。
  春になったんでとやって来た、隊商の連中が話していたぞ。」
 「まま、この街には関係のない話だが。」

 もしかしての先々では、雷電や紅蜘蛛らの出入りも想定してこうしたものか。その名前に違うことなく、見上げんばかりという規模の大きな大きな大門は、その重量も半端ではないため、夜間の通過にと開いている耳門はともかく、正規の門の方は動力仕掛けで開閉がなされる仕組み。それだけ厳重な代物だという安心もあってか、開門と同時に顔を合わせる相手といやあ、こんな早朝だってのにすぐ外で待っている、朝の市場へ作物を運び入れる顔見知りの百姓たちくらいのものよと油断しきってのこと。ついつい無駄話が止まらずにいて、

 「そうか? 浪人らは恐るるに足らなくとも、機巧躯の、
  ほれ何と言ったか。」
 「野伏せりか?」

 最初から一致団結していた一味じゃあない。各所に散ってのそれぞれが、勝手知ったる縄張りや足場を持っていた、荒くれ共の成れの果て。その始まりはといえば、あの大戦の最中にあっては、軍部に籍を置き、それなりの働きをし、武勲を立てたからこそ得た誉れの機巧躯の筈が、戦さが終われば無用の長物。力仕事にと使われるのは、誇りが邪魔してかなわぬなぞと、高をくくっているうちに、そんな居場所も生身の存在らにて賄われてしまっての居場所を失い。強力
(ごうりき)を恐れられての、敬遠されるばかりな身となったその末のこと。悪鬼のようと呼ぶのなら、それへそのまま応じてやろうぞと、辺境の無防備な土地を荒らしていたのが始まりの“野伏せり”連中。

 「そうそう、その野伏せりとやらが、
  前にも増しての凶悪な野盗化しつつあるとの話も聞いたぞ?」

 実をいや、そんな彼らの破格な武力を買うたのが、やはりやはり 怜悧さで物を見る筆頭のアキンドたちであり。利用価値がないものかと様々に考慮算段し、ともすれば誇り高きところへ食い入り、お仲間の窮状の痛々しさを何としょうなどと、巧みに宥め賺して…という“口説き”もあっての傘下に収め、主幹格の顔触れのみを支配し、あとは好きなように統率を執らせた。そこもまた、彼らの狡猾なところであり。結託しはしても、不法行為を犯させる一味との関係が公けにされては困るのでというその配慮が、整然とした規格にのっとった流通の維持を保ちつつ、それを蹴散らしての強奪による一方的な利をもアキンドの手元へと一括しての寄せ集め。

 「だが、野伏せりはあの、都 撃沈事件で全滅したんじゃなかったのか?」
 「いやいや、農村に派遣されとる浪人出の衛士らの話だと、
  雷電だの紅蜘蛛だのといった大型のじゃあない、
  兎跳兎や甲足軽とかいう、機械兵士級の面々は、
  直接の頭目を失い、野にあふれているらしくての。」

 戦後十年も経った現今ともなれば、愛国の士気やら、はたまた怨嗟からのそれであれ、人々の余熱もすっかり冷めての落ち着いたもの。しかも、野伏せりという…実はアキンドの傀儡も等しき存在の、秘密裏の誕生とその跋扈という流れもあって。そういった舞台裏がどうであれ、世情の混沌の主役の座さえ、商人らが用意したものへと置き換えられていたのは確か。そして…彼の本意が何処にあったかはとうとう判らずじまいになったが、そんな野伏せりを討つ用心棒になりませぬかと、亡き天主・右京が募った農村への衛士に、我も我もと乗って来た浪人らがどれほどいたことだろか。元・軍人でもそんななくらいだ、今更天下を取ってやろうというほどの鼻息荒い不埒な輩もおるまいと、よほどのこと怪しい人物や危険な物品ででもない限り、関所であるこの大門での検閲も緩めての、あくまでも治安維持のための警戒をしておりますという姿勢を前面へと押し出していた。それが街を飛躍的に肥えさせた画期的な英断であったのだが、


  今の今、つい最近の不穏な空気さえ打ち払ったこの時勢になって、
  そこへと目をつけられることとなろうとは、一体 誰が思っただろか。





        ◇◇◇



 最下層の“癒しの里”は、夜を知らない不夜城との異名も持つ歓楽街ではあるけれど、だからと言って夜中のずっと、そこへの出入りが自由になるほどの“無法地帯”な訳でもない。冒頭間近に展開したように、昔むかしの創成期には、年季奉公という名目で借金の形に売られて来た女と、やはり前借しまくった負債を支払うためにと日雇いで働いていた男衆とが、手に手を取っての逃亡を図る恐れがないように。その出入りは厳しく監視されており。その当時の名残りでか、夜更けの定時を回るとそれ以降は里の大門が閉じてしまい、中への出入りが厳禁となってしまう。なので、夜っぴいてという勢いで騒いでいた面々も、それよりも早い時間帯に里への門をくぐっての、お座敷構えたお歴々ということになるがため。さすがに未明を過ぎれば、次々に沈没しての白河夜船。黎明に包まれるほどの時刻ともなりゃ、こそりとだって身動きする者とて居やしないのが通例で。


  ―― そんな通例が現実ならば、彼の人の影は幻か


 どうせ店の者らも大半が遅寝を決め込む里ではあるが、それでも中には…早寝をしての朝寝もそこそこ、太夫との後朝
(きぬぎぬ)の別れを気取る風流な旦那もいるものだから。それへのお支度、手伝う面子がこれまたあって。他の客人の眠りを邪魔せぬように、口を噤んでの だがだが手元は手際よく。目覚めの湯桶や湯づけの膳の支度をと、てきぱきと働く顔触れのうちの目ざといのが、ふと。御膳所の連子窓越し、何かしらの影がサッと素早くよぎるのを見た…ような気がして、

 「???」

 あれれぇ?と小首を傾げている。これでも農家の出で朝には強い方。だからと、このお当番も毎朝請け負ってるというくらいに、すっかりと目も覚めていた娘さんであり。そんな彼女の視野を、ツバメか何かのような素早さで、だが間違いなく何物かが掠めていったのだけれども。

 「どしたんだい、お八重。」
 「あ、お浜さん。」

 まだ前髪を揚げてもない、太夫見習いの下地っ子“禿
(かむろ)”としてじゃあなく、下働きにと寄越された田舎娘だが。だからこそか、融通が利かないほどの生真面目な子でもあって。それが…珍しくも仕事中に呆として、窓の向こうへと顔を向け、立ちん坊になっているなんてよくせきのこと。熱でも出たかと案じた年嵩の仲居が声をかければ、

 「いえあの。
  さっき、離れの方から大きな鳥が飛び立ってったみたいなんですよう。」
 「鳥?」
 「はい。丹頂ほどもあったような、細身の鳥でした。」

 笑ってもなけりゃあ落ち着きなくのおどおどもせず、ほんの少しほど 合点が行かぬと眉を寄せている少女の言いようは、嘘偽りなぞ微塵も含まれぬ、そりゃあ真摯なそれであったが、

 「鳥だなんて。こんな朝早くにかい?」
 「そりゃあおかしかろうよ、お八重ちゃん。」

 話が耳に入ったらしい、他の顔触れも口を挟む。こんな朝早くから、しかも丹頂鶴ほどもある大きめの鳥だって? そんなの持ち込んだお客はいなかったし、鳥はそのほとんどが暗い内は眸がよく見えないって言うよ? そうそう“鳥目”って言葉もそっから来てんだしね。時間としちゃあ、地上なら陽も出ている頃合いだが、この辺はまだまだ夜明け前も同じ薄暗さ。せめて金色の最初の一条なりとも差し込まにゃあ、鳥の類は飛び立ちゃしない。

 「俺の郷里じゃ野鴨がよく田圃で休んでてさ。
  朝日が出ると同時に ばさばさばさって、
  餌場目指して明るい中を飛び立ってったもんだ。」

 もちっと明るくならねぇとな。そうそう、きっと何かを見間違えたんだぜ。素直な娘が相手だからか、特に囃し立てて言うのじゃなくの、勘違いだよと宥めて下さる兄さん姐さんたちだったので、

 「…はあ、そうでしょうか。」

 それでなくとも、整然とした手際にて支度を整えねばならない忙しさの最中。かまどの前にて お湯の番を言いつかってた八重の方でも、それ以上はムキになるのをよしたのだけれど。

 “でもあれって。
  一番奥の、あのお武家様たちのお部屋じゃなかったかなぁ?”

 一番手入れのいい離れに逗留中の、女将さんの、いやさ、七郎次さんのお知り合いだという二人連れのお武家様。どちらもそりゃあ男ぶりのいい方々で、ただ…お若いお侍様の方は、屋根の上に立ってたり、時折、お空の真ん中なんていう とんでもないとっから降ってくることもしばしばなので。そこまでの人間離れした振る舞いをなさるお方だから、

 “……もしかして、今さっきのも?”

 かっくりこと、愛らしくも小首を傾げたお八重ちゃん。そんな彼女にも、こちらはさすがに手前の寮に遮られて見えなんだ、中庭の奥向きの一角にては。壮年様の方までも、身支度整え、庭先までへと出て来ておいで。目のいい彼女に丹頂と間違えられた連れ合いが、そりゃあ危なげなくも上層部へ翔っていったの、妙に和んだ…ともすれば愉しげとも釈
(と)れそな表情浮かべて見送って。さてと 仰のいていたお顔を戻しての、出て来た離れに背を向けて。こちらはまだまだ冬枯れの、乾いた音する芝草踏みしめ、歩みを進める彼であり。褪めた白した砂防の長衣。その肩覆う、豊かな蓬髪がスルと揺れ。

 「…?」

 微かにお顔を傾げた彼だったのは、ふと、視線を感じたから。おやと気づきはしたけれど、ただ目線をだけそちらへやれば。ドウダンツツジとアジサイの、生け垣越しになっている庭の先、母屋の方の雨戸がはやばや繰られており。誰の姿もないながら、だが、その辺りにいるともなりゃあ、店の者らの内でも主人とその家族とに限られる。もしやして、癒しの里の内にまで、様子見の間諜もどきが入り込んでいないとも限らぬからと。それでなくとも 不意を突くため、誰へも前触れはしていないその出立。誰ぞに何かしらを感じさせては意味がないからと、わざわざ見送る必要はないとの申し合わせこそしていたものの。だからと言って全くの知らん顔なぞ出来なんだのだろ、今時風の見かけによらず、義理堅くて情の深い誰かさんが、雪見障子の向こうにじっといるのが伝わって来る。

 “……。”

 そんな相手へ会釈を見せれば、此処へはもはや戻らぬことを示してしまい。挨拶もなくの秘密裏に出てゆく意味がなくなる。よってのことだろ、片頬だけで微かに笑い、そのまま歩調も緩めずに、外への枝折戸押して出てゆく、その長身を…頼もしい背中をただただ見送って。

 「……。」

 ああ不思議と涙は出ないね。ちょっぴり喉がつらいだけ。だって、何度も何度も久蔵殿に言ったじゃないか。此処がお二人の帰る家ですと。アタシは待つ立場を選びましたからと。今生のお別れになるんじゃあない、アタシは此処で待っていますから、いつだって帰っていらっしゃいと。だから、そう。ちょっとの間だけのお別れだ。そのついでにと勘兵衛様が企む仕儀へ、そら、アタシも集中しなくちゃいけないやねと。


  ほうと息つき、踏ん切りつけて。
  よしと顔上げ、立ち上がる。


 動きやすいようにと、幇間のいで立ちへ着替えた上で。四角く座してた傍らには、使い慣れたる朱柄の長槍。それを手に取り、座敷を出れば、

 「…お前さん。」

 そちらは廊下に佇んでいたらしい、白いお顔の女将と出会う。店の支度にもう起き出していたものか。いやいや、彼女は夜こそ客の相手をせにゃならぬ身。それゆえ、朝は遅寝をするのが常でもあるはず。もしやして、自分がまとっていた緊張に、彼女も気づいて落ち着けなんだか。だったら悪いことをしたなと、笑いかけようとしたものの、

 「…。」

 その名に冠した雪もかくやとばかりに、血の気をなくした顔色だと気づく。せっかくの美貌を陰らせる、案じるような寂しげな顔をされ。それ見てハッと胸衝かれ、息を飲んでしまった七郎次。自覚のないまま、それでも よほどに堅い面差しでもしていたか。そして、そんな自分を案じてくれた彼女なのだろと思うにつけて、何とも遣る瀬ない苦笑が洩れてしまい、

 「すまねぇな。気ぃ揉ませちまってばっかりで。」

 いくら気丈な女傑でも、こうまで…本当に斬った叩
(は)ったを仕合うよな、血生臭い騒ぎへ巻き込まれるなんざ、これっぽっちも望んじゃあいなかったことだろう。思えば彼女へは最初から、相当に骨の折れるだろう大変なお世話のかけっ放しで。半死半生の軍人が収まったまんま、流れ着いたる生命維持装置(ポッド)をわざわざ拾ってくれた。既に終わった戦さと聞かされ、絶望した挙句、追い腹斬ろかとまで打ちひしがれた半病人を、元通りの気勢が戻るまで 陰になり日向になりして励まし支えてくれた恩人だというに。何も持たなかった自分は、そんな彼女へ果たして何をか返せたものか。殊にこの半年、勘兵衛が現れてからのこっちというものは、

 「迷惑かけるか心配させるかしかしちゃあいない、
  とんだ疫病神だっていうのにな。」
 「そんなこと…。」

 しかもその上、お仲間内の背中を押すために…とはいえ、

 「勝手に、此処を自分チみたいな言いようまでして。」

 頭の後ろへ手を回し、呆れたもんさねと たははと笑って。それから…その手を顔の前まで持って来ると。真っ直ぐ立てての拝む格好、大の男が女将へと、そりゃあ深々頭を下げる。

 「今日が最後だ。すまねぇ、女将。」
 「え?」

 何が?と息引く女将へと、いつの間にやら真顔になって、

 「今日でこの騒動にも鳧がつく。だから、それまでは大目に見とくれ。」

 幇間として用心棒としての仕事をサボったばかりじゃあない、秋からこっちの騒ぎのお陰様、贔屓も幾つかしくじっただろうし、何より山ほど案じさせた。血生臭いばかりな侍崩れには もう懲りてしまったんなら、追い回しや使いっぱに格下げしてくれていいから。何なら追い出してくれたって構わねぇから、だから…と。自分勝手の一方的に、滔々と語りかけて来る七郎次なのへ、

 「……それじゃあ。」

 ただただ勢いに圧倒され、口を挟めぬままでいたその間、案じていた心持ちまでもが別な心情へと塗り変わってしまったものか。雪乃の側が“あれまあ”と呆気に取られていたのも束の間のこと。にっこりと、そりゃあ綺麗な笑顔を見せてくれた女将が、春先の色襲
(かさね)も小粋な袷(あわせ)の懐ろから取り出したのは。堅そうな黒石と金具のついた石とで一組になった、火の粉を打ち出す火打ち石。

 「お前さんこそ、今日は一日頑張っとくれな。」

 この里の守りを任されたんだろ?と。婀娜な口許ほころばせ、うふふと微笑ったお顔は、先程までの沈んだそれより ずんと晴れ晴れと明るくて張りもあり。これは余程のこと、念の入った何かしらを言いつけられそうなのか、いやいや今日が正念場だというのを後押ししてくれてのことだろと、面映ゆげに苦笑をこぼした美丈夫さんへ、景気づけの切り火を浴びせ。じゃあなとそちらは店の表へ向かって行くの、胸へ手を当て、惚れ惚れと見送っていた女将の雪乃。白いその手を、ふと…帯の上までへ スルリと降ろし、

 「……もう、話しちまっても構わないよね。」

 もしかしたならあの人も、あのお二人と旅立つものかと思ってた。だってあれほど焦がれていた“勘兵衛様”と、やっと再会出来たのだのに。戦さも北軍もどうでもいいと。ただ、上官様の生死が、行方が、杳として知れないのが狂おしいほどに辛くて辛くてと。お綺麗な風貌と裏腹、妙なところで頑固頑迷だった困ったお人。5年もかけてのやっとのこと、強かな笑顔を見せてくれるようにもなった。緩急自在に気遣いの出来る人、この自分が手放しで凭れられるほどの頼もしさまで、感じさせてくれるようにもなった、その矢先だったから。そりゃあ少しはね、この胸振り絞られるような、切ない想いをしもしたけれど。それでも、それをこの人が選ぶんならと。

 “アタシにはあんたがいるしって、そう思おうと思ってたんだのにね。”

 気遣いの利くあの人も、さすがにこれには気づけないでいる。帯の堅さと広さの微妙な違いと、そしてその下に息づく命と。ねえ、もう話してもいいんだよねと。ほのかに頬染め、帯へとそおと手のひら伏せて。そりゃあ愛しげに撫でた、女将だったりするのであった。





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  *いろんな言い訳をさせていただくと、
   まずは冒頭が ちとくどくなっててすいません。
   あまりに間が空いたので、書く方もお浚いする必要が生じまして。
   それと、あの虹雅峡の周りに
   城砦なんてあったか?大門なんてあったか?と
   そういう突っ込みがこないようにと、
   マイ設定として厳重に固めさせていただきました。
(おいおい)
   ともあれ、やっとのことで“当日”の朝です。
   一体何がどう撒き起こりますのか、
   ここまで焦らしといて、
   竜頭蛇尾もいいとこの肩透かしだったならすいません。
(苦笑)


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